教科書論争
最近、みん日批判(正確にはコミュニケーション重視の授業でみん日を使う事への批判だけど)に対して「ほっとけばいいじゃん」みたいに、『"みん日批判"批判』みたいなのを目にするようになった気がします。
「みん日批判をする人は偉そう。」
まぁ、正直わかる。俺もその偉そうにしてる1人です。すんません。
でも、この話題となると必ずと言っていいほどあの方々が主張してますが、
「目的に合った教科書なら楽に高い効果をあげることができる」
ほんっとこれだけの話なんですよね。
目的に合わないものを使うから準備が必要以上に大変で、無駄に大変だから労働環境が悪くなって、人材も育たない。え、理にかなってるじゃんっていう。みん日を批判するんじゃなく、なんでもかんでもみん日を使うことに疑問を感じると。目的に合わせて教科書変えようぜっていうね。
ただ、この話は「構造シラバスはコミュニケーション力を鍛えるのには向かない」という共通の認識がないといつまでたっても平行線だけど。
この「構造シラバスがどんな授業に向いているか」についての結論は既に出ているものと思います。俺は日本語学校の人間なので日本語学校について話しますが、一般的な日本語学校では構造シラバスは正直向いてません。と、俺は思っていますが、実はここでも共通認識が持てていない場合もまだまだあるようで、そうなるとやはり平行線。
この辺の平行線は、それぞれが頑なに持っているビリーフみたいなもので、なかなか交わりません。そんな状況だから「ほっとけ」ってなるんでしょう。
俺も何回も同じような話に首を突っ込んできたし、この主張が交わらないならもうほっとけばいいじゃんってのもわかるんですが、それでもやっぱり口を出してしまう。
なぜかって?
効率悪い授業が蔓延ってたら困るのは学習者だからですよ。
これでも日本語教師のはしくれ。
多くの人に日本語を楽しく学んで欲しいし上達もして欲しい。それが自分の学校の学生じゃなくても。だから「よりよい答え」が存在するのなら、それを見つけておきたい。
それなのに古い考え方に固執したままで別のものに目を向けようとしない日本語教師がいたらやっぱり「ちょ待てよ」ってなるじゃないですか。
だいぶ前に、ICTに拒絶反応を示す人ってどうなのみたいな記事↓を書いたんですが、
http://jpns.hateblo.jp/entry/2019/06/15/184127
俺のブログで一番読まれてたのがこれなのでもしかしたら覚えてる人もいるかも。
これ、ICTじゃなくて指導法にだっておなじことが言えますよね。
考えても見てください。
また医療のたとえ話を出しますが、『湿潤療法』ってご存知ですか?キズパワー○ッドみたいなやつです。
あれって、従来の治療法から考えるとありえないんですよね。それまでは「傷口は消毒して乾燥させてかさぶたを作っちゃえば早く治る」って考えられてたのに、湿潤療法は「消毒せずに水で洗って常に潤わせて乾燥はさせない」みたいな治療法ですから。
昔は褥瘡とかをドライヤーで乾燥させる!なんてこともしてたらしいですね。今の医療からは考えられない話です。
日本語教育だって同じじゃないですかね。研究が進めば、理論なんて180度覆る。それまで自分がやってたことが全て否定されることだってある。でもそこで古いものに固執して、誰が困るかって、やっぱり患者(学習者)ですよね。
「みん日使ってる人の気持ちも考えてよ」って言われても、そこは重視すべきポイントではないかなと思います。
俺だって昔はみん日使って、それこそ「歩くみん日辞典」のレベルで語彙も文型も把握してましたさ。未習語彙は使わない方がいいって思ってたし、いろいろ手の込んだ導入を考えてました。
でもそれがダメだって思うなら、たとえ過去の自分の言動やら積み上げてきたものやらを全てぶち壊すことになっても、別のものにも目を向けなきゃなと思います。ぶち壊すことでより良い授業ができるなら。まぁぶち壊してダメになる可能性だってありますし、人間関係とかこじれるかもですけど。
俺の場合、まずみん日の使い方をガラッと変えました。導入や練習方法も変えて、教科書の中に使わない部分が増えて行きました。次に「できる日本語」を使い始めて、みん日に足りなかったところとかでき日の使いにくいところとかを感じて、最終的にやっぱりみん日やめようって判断に辿りつきました。
今の職場では、教科書の決定権がないどころかまだ仮採用が終わらないうちから「今の文型重視の授業じゃ日本語力伸びない」って主張したりもしてましたし。今考えるとめんどくさい新人ですね。周りは敵だらけだったと思います。結局教務主任になって教科書変えましたが。
ところで、「みん日批判派が偉そうに見える」という意見。実は、ちょっと「そんなのしょうがないじゃん」って思っちゃう部分があります。あぁ敵が増える。
だって、今の進んだ研究を無視して30年前の常識のとおりに傷口にドライヤーをあててるようなものですよ。患者は痛がるし、治りも遅くなるし、その分ガーゼ替えたりちょくちょく消毒したりとか医者の仕事も増えるし。そんなのねえ、ほら、見ててなんかいろいろ残念な気持ちになるじゃないですか。
みん日だって、新しい理論に合わせてコミュニカティブに使えるってのはわかりますよ?
でも構成が作られた当時の理論を無理に新しいのに合わせると、どうしても破綻する部分が出る。それなら最初から新しい理論で作った教科書にすればいいよねって話で、結局最初に戻ります。
「みん日もまるごともただの選択肢の一つであって、それ以上でも以下でもない。どの教科書がいいかは人によって考えが違うんだから、なんでもいいはずだ。」という意見も見られますね。その通りです。でもそれは、「"学習者の目的と合っていて高い学習効果が挙げられるなら"なんでもいい」ですよね。この条件に合うなら、なんでもいいんです。そしてこの条件に最も合う教科書を探して比較検討するのは教師としての義務で、ああやっぱり最初に戻りますね。
てことで、やっぱり日本語教師として学習者のことを考えると、たぶん俺はこれからも学習者の目的と教科書を形作った理論とが噛み合ってないのを見たら、偉そうに口出ししちゃうんだろうなと思います。
ちなみに、みん日の対抗馬として主に出されるのはやっぱりまるごとあたりだと思いますが、まるごとにだって欠点はあります。なんかまるごとの欠点が全然出されてないのは不公平な気もするので、まるごと使ってみて大変だなってところも暇があったらそのうち書いてみたいと思います。まるごとだって完璧な教科書ではないですからね。何年かしたら廃れてる可能性だって0じゃありません。